アジサシの挑戦記

挑戦を諦めない崖っぷち学生のブログ。

80話 SDGs達成は2092年だと!?

面白いニュースが入ってきた。

日経新聞によると、国連が2030年までに解決すべき17の目標として掲げ、それを策定して今年で5年となるSDGsが、なんと達成が2092年になる見通しとのことをNPOが発表したそうだ。

 

ちなみに、SDGsが全ての国で達成された場合を100とするならば、2020年現在は72.57で、15年からの改善度はわずか1ポイントにとどまる、とも当該新聞は述べていた。

 

2092年ともなると、SDGsはおろか、新たな課題に悩まされて、それを解決するアジェンダ22とやらが策定されるだろうに・・・何を呑気なことを世界は考えているのだろうか。

そもそもかかる課題を完全に達成するのは本当に可能なのか、本稿ではSDGsで掲げられた17の目標と現在の世界の中心となる資本主義・民主主義についても考えながら検討していきたい。

 

SDGsとは

 

正式名称「持続可能な開発目標」、通称「グローバルゴールズ」とは、世界における貧困を終わらせて、地球の環境も保護し、かつすべての人が平和と豊かさを手に入れてられるような社会を目指すべく、MDGsと呼ばれる開発目標の成功に続いて国連で策定sれたものである。

 

皆様も、通勤・通学時にサラリーマンや役員等がスーツ姿で虹色の輪のようなバッジをつけて列車に乗ってくるのを見たことがあるかもしれない。

そのバッジこそ、SDGsのバッジである。国連で正規販売しているが、中には模倣品のものも流通しているので注意が必要。

このバッジを着用することで、「この人の所属する会社はSDGsに向けた取組みを行っています」というアピールになるとかならないとか。

 

国連等の機関が認定した企業や個人にバッジを配布するのか・・・と思いきや、実は誰でも購入することが可能なようだ。学生はもちろん、小学生や幼稚園児がバッジをつけても何ら不思議ではない。笑

 

なお企業において実体的な取組みを行っていないのに、あたかも取り組んでいるように見せかけて(または思い込んで)SDGsバッジをつけて商談に向かうなどすると、SDGsウォッシュ、またはSDGsウォッシングと呼ばれ、企業、ひいては各個人の信用を毀損することにもなりかねないとのこと。こちらも注意が必要だ。

 

17の目標とは具体的になんだろうか?

1 貧困をなくそう

2 飢餓をゼロに

3 すべての人に健康と福祉を

4 質の高い教育をみんなに

5 ジェンダー平等を実現しよう

6 安全な水とトイレを世界中に

7 エネルギーをみんなにそしてクリーンに

8 働きがいも経済成長も

9 産業と技術革新の基盤をつくろう

10 人や国の不平等をなくそう

11 住み続けられるまちづくりを

12 つくる責任つかう責任

13 気候変動に具体的な対策を

14 海の豊かさを守ろう

15 陸の豊かさを守ろう

16 平和と公正をすべての人に

17 パートナーシップで目標を達成しよう

 

具体的な内容については公式サイトを参照すると分かりやすいので、省略する。

 

さて今回の17の目標は、果たして2030年に達成することはできるのだろうか?また、日経新聞が記事で述べたように、2092年に達成することはできるのだろうか?

皆様はどう思いますか?

 

私は不可能であると考える。

SDGsを批判しているのではなく、SDGsが形骸化するおそれがあるのではないか?ということと、内容そのものが時代にマッチしていないのではないか?という疑問をなげかけたいだけなのだ。

 

一つ一つ順番につっこんでいこう。

1貧困を一緒くたにすると貧困は解決できない

 

貧困の定義とは何だろう?

貧困とは、ひとそれぞれの価値観によって定義が変化するものだ。

例えば日本で貧困というならば、第一に年収が低い、ということをまず想像できそうだが、

年収300万円以下の「ワーキングプア」や、年収600~800万、1000万以上であっても、親世代によって受けたい教育をうけられなかったりお小遣いを受け取ることができなかったり、まともな食事を与えられなかったりするのも、子どもにとってみれば貧困と言わざるを得ないだろう。

ほら、今言っただけでも金銭的貧困から食事、教育における貧困が現れた。一方向の貧困だけ見ていては他の貧困が解決できるわけがない。

 

このように、ちょっとかじって挙げただけでも「何をもって貧困となすか」で解決すべき貧困とは何かがガラリと変化する。

もっとも、他の人よりも生活の質が劣ることだけを貧困とする極論を抱くならば、例えば衣食住、娯楽等何でもそろっているが平均よりも生活水準が若干落ちていたりするだけ、を貧困とするならば、今度は資本主義という世界の主流の考え方そのものを見直す必要が出てくるだろう。

そのような貧困を完全に解決したらどうなるか?

そこに待っているのは経済の停止である。

貧困を極端に否定するのは、同時に平均以上の富裕層の存在やイノベーター・ノーベル賞受賞者などの偉大な人物の存在を否定することになる。名誉についてくるものが将来の報酬として数億、いや数十億以上の富がもたらされる場合が多い。今ある医療技術や今あなたがご覧になっているスマホ、パソコン、今乗っている電車、飛行機などは、発展が遅れたかもしれない、いや、一生手にすることがなかったかもしれない。

それは何を意味するか?そう、経済の停滞と社会の停滞である。

 

「貧困」・・・とひとくくりに定義せず、何をもって貧困となし、その貧困を解決すべきか。それをしっかりと各個挙げなければ、真の貧困解決には繋がらないと私は考える。

 

2 飢餓に終止符は最も分かりやすい問題だが・・・。

飢餓というのは、貧困よりもわかりやすい問題である。なぜなら、定義がしやすいから。

飢餓とは、人間が本来必要な栄養量を食物から摂取できないことで、栄養不良に陥り、体調の維持が困難となることを指す、と一般的にはいわれている。

ユニセフによると、2019年7月の時点で世界の飢餓人口が8億5000万人にのぼるとのことである。

世界の人口が約80億人に達しようとしていることを考えると、10人に1人以上が飢餓に苦しんでいる計算となる。極めて多い数だ。

もちろんこの問題に指をくわえて傍観せず、アクションを起こしている企業やNPO法人は多い。

日本において最もこの問題の解決に取り組もうとしている企業の一つが、「ゼンショーホールディングス」とそのグループである。「世界の飢餓と貧困を撲滅する」という目標のもと、日本からフード業世界一を目指すために全国から世界へ事業を展開する、有名かつ魅力的な企業だ。学部時代の就活生、まして飲食業界に行きたい就活生なら一度は聞いたことがある企業ではないだろうか。

例えば、このような企業が世界に複数存在し、それぞれのビジネスモデルで飢餓を撲滅できるといった、遠い未来がくるのかもしれないが、ここは一つ、「企業」であることを忘れてはならない。

「企業」はあくまでも「営利団体」であることを忘れてはならないのである。

採算がとれなければビジネスが成り立たなくなり、撤退または売却する。これは当然のことだろう。しかし、飢餓が深刻な地域に進出したとしてひとたび採算を考えてしまえば、不採算ということで撤退した先に取り残された地域にやってくるのは、撲滅したはずの飢餓ではないだろうか?他の事業や地域でカバーするから飢餓地域は赤字だろうが絶対に撤退しないぞ!!というならまだしも・・・。企業は営利団体であるという現実から目をそらしてはならない。

 

NPOをはじめとする非営利団体が全力を尽くし、かつ企業側にも本気で飢餓と貧困撲滅を掲げている方がいて、なお飢餓人口が増えている。さて本当に解決するのかな?

 

実は私自身も、飢餓について実際に世界を見て回ったことがないため、飢餓の恐ろしさを完全に知らない。一時的に何も食べることができなかった日が続いて、栄養失調により救急車で運ばれたことはあるが、飢餓問題はそのような生ぬるい話では決して無いはずだ。

だからこそ、飢餓という最も早く解決すべき問題に対しては、研究に研究を重ねて、それこそ産官学と非営利法人の総合力で何かできないか、模索すべきではないだろうかと唱えたいが、それは世界に出て実態をその場で経験しないと言えない台詞だ。

もっとも、そのようなうまい話はまだ聞いたことがないのだがね。

私は「まちをつくる」という目標に到達すべく今を生きているが、食品系まで手を出すのは申し訳ないがキャパオーバーである。自分ができることに専念したいと思う。

 

・・・と、一つ一つ書いていくと、それこそ文字数がしゃれにならないので、3つめから先はまた別の機会に述べていこう。

 

 

このように、SDGsには目標を掲げただけで疑問点や経済に対する矛盾点をはらんでいる。

いずれは達成されるべき目標であっても、なぜ今まで達成されなかったか、という歴史も含めて深く検討しなければ、SDGsなどただの茶番に過ぎなかったと言われて将来の歴史の教科書でたたかれるだろう・・・。

 

2030年はともかく、2092年か・・・。

まだまだ理想への道のりは長そうだな。

私は傍観するつもりは全くないが、果たしてしかるべき進路を進み、達成に大きく貢献できるだろうか・・・。

 

続く。