50話 脱・合格可能性の百分率化
前々から述べているが、私アジサシは鉄道の立場からまちづくりを行うために就職するべく、それに必要な知識を深めたり、その他必要なスキルを証明して内定をいただくために、法学から工学へ理転しようとしている。
まちづくりに関する業界や、業界内の企業はほとんど見てきたつもりだが、鉄道も一度は落ちてしまったが、それでも俺は、鉄道への就職を諦めない。
現在の勉強方法は、通常の勉強では理系の学生に到底追いつかないと考えたため、1人で教科書の内容を録音して自称教授になりきり、1人でそれを聴いて学習する、「1人授業」スタイルで学習を進めている。
こうして、卒業後1年のブランクを開ける予定で工学と英語の勉強を進めているのだが…
身内との衝突は避けられないわけでして…
「その大学院に合格する確率は何パーセントなのか?」
「お前がさ、法学の学部から卒業して一年浪人して東大(といったハイレベルな大学院)に合格する確率と、今からスイミングスクールに通ってオリンピックの選手になる確率、どっちが大きいか友達に聞いてこいよ。」
「どっちも難しいとおもうぜ?」
「確実に合格できるという保障がないんだからさ、もうちょっと現実みろよ。」
と、言われたりする。
ほほう。なるほどこの論理は一見すると合理的にみえる。
そう言われるのも仕方がないし、そもそもこうやって考えてきた人が少なく、合格の先例も少ないのだから、言われること自体は自然なことだと思えなくもない。
だが、合格可能性が100%でなければ、どのパーセンテージを見積もったって、「受からない可能性があるのだから諦めろ」という論理になる。
就活、受験なんてできないじゃん。
たとえば可能性を5%にしたところで、「5%しか今受からないって感じているのなら、なおさら一年がんばったところで受かるわけねーよ。」となるし
逆に50%、70%にしたところで、「現実が見えていないね。5%とかいってたら、もうすこし現実が見えているとしてまだ納得したかもしれないのに、そんなやつが受かるわけねーだろ。」と言われる。
100%だと、「試験に100%なんてねーよ、あほか」と言われる。
さああなたならどうする?
補足
私の考えとしては、そもそも努力が第一の選考の場で確率論を出すこと自体がまちがっていると思うが、どうだろうか。
みなさんも、ぜひ考えて、私のインスタのDMに送って欲しい。